校訓・教育理念

生徒が校舎に入るとすぐに「团结友爱,互敬互助」の八文字が目に留まります。また、運動場で活動しているときも、校舎に掲げてある「团结友爱,互敬互助」の八文字を目にします。この八文字こそが本校の校訓です。 九年間の学校生活の中で、生徒がこの八文字に込めた想いを心から理解することを切に願っております。

团结:心を合わせ協力する 友爱:友情 互敬:互いを尊重する 互助:互いに助け合う

本校では、皆が心を合わせ協力し、向上心を持つことをモットーとしております。学校では、教員、そして生徒達が力を合わせ様々な活動を行います。このように協力し合うことこそが、人と人との絆を深め、互いを思いやることに繋がるのです。本校では、このような精神の元、未来に羽ばたき、世界に向けて品性、知性、そして健全な発達を遂げる人材に子ども達を育成することを教育方針としております。

16文字の理念

“継承同文優良伝統、緊跟時代作育人材”

“同文の素晴らしい伝統を受け継ぎ 時代にあった人材を育てる”

教育目的

本校は華文教育を通じ、華僑華人子弟が中国に対する様々な知識を正確に身につけるよう教育します。また、先生を敬い、友達と友情を育む中で、品性、知性、そして健全な発達を遂げる人材に子ども達を育み、将来、中日友好の事業に貢献でき得る人材育成を目指しております。

校章

李平凡(本名:李文琨、別名:里肯)、本籍天津市津南区高庄、1922年5月13日生まれ。天津高庄小学校及び天津市美術館西洋画科で学ぶ。1943年、同郷の人である当時の神戸中華同文学校校長李万之に招請され、本校の美術教師となる。

校歌

作詞:李万之

1914年中国天津市生まれ。1935年来日し教員となる。1935年から1940年の間、神阪中華公学校及び神戸中華学校で教鞭を執る。1941年に辞職し帰国する。1943年神戸華僑総商会学生委員会に招請され再来日し、1982年定年退職までの期間、神戸中華同文学校において校長職を務める。退職後は名誉校長に就任する。

1982年、日本兵庫県政府より国際功労賞を授与される。1983年、国際文化賞を受賞。1984年、日本政府より勲五等双光旭日章を授与、神戸市制百周年功労者賞を受賞。1946年から1950年、1976年から1986年の期間、神戸華僑総会にて会長を務め、その後名誉会長に就任する。

作曲:陈晓勇

国際的作曲科

1955年北京生まれ。1985年中央音楽学院作曲科を卒業。その後、ドイツハンブルグ国立音楽演劇大学にて教鞭を執っていた作曲家リゲティ・ジェルジュの門を叩き学ぶ。その後、リゲティ・ジェルジュの弟子の中でも数少ない国際的作曲科の一人となる。現在ははハンブルグに居住し、ハンブルグ国立音楽演劇大学作曲学科にて教授を務め、さらに上海音楽楽員作曲学科特任教授を務める。また、オーストリアドナウ大学現代音楽センター芸術及び学術顧問、学校駐在の作曲科を務める。彼の全作品はドイツシコルスキー音楽出版により独占出版されている。

建学の精神

アヘン戦争以来の中国は、帝国主義を進める列強による侵略の末、政治腐敗してしまった清朝は領地を割譲し、権益を失い恥辱をもたらしていた。さらに、国内においては重税を搾取し、民から容赦なく税金を取り立て、その結果、社会は動乱し、民は安心して生活することさえできなかった。どのようにすれば民は救われるのか?どのようにすれば中国は強くなるのか?そんな想いから、清朝末期には維新運動が起こった、それは改革の先駆けではあったが、保守勢力の反対により鎮圧されてしまい、ほどなくして失敗に終わった。

 戊戌の変法の失敗の後、維新派はリーダーの一人である梁啓超先生は1898年に日本へ亡命した。次の年の5月28日、先生は神戸を訪れた。梁先生は国を憂い、民を憂いた。失敗を教訓にするため、甲午戦争を総括し敗戦の原因を探った。彼は神戸華僑への演説の中で、心を込め「甲午戦争で敗戦したのはなぜか、それは当時の中国政府が教育を重視していなかったからだ。」と訴え、華僑学校の建設の意義を高らかに唱えた。

梁啓超先生の呼びかけは、神戸華僑の大きな反響を呼び、「有钱出钱、有力出力(お金がある者はお金を、力もある者は力を出そう)」の精神の元学校を創立し、校名を「神戸華僑同文学校」とした。その後、神戸華僑は新たに二つの学校を創立した、1914年1月19日に創立された「神戸華強学校」、そして1919年に創立された「中華学校」である。1928年には、学校の運営の効率化、またはコストの削減、そして何より華僑の連携をより一層深めるために、それら二校を合併し、「神阪中華公学」と名付けた。

1939年、戦火の拡大に伴い、日本政府は全国への統治を強化していった。当然のごとく、華僑団体への当局の干渉も厳しくなった。その中で、「同文」と「神阪」の二校も合併せざるを得ず、校名を「神戸中華同文学校」とした、そして現在に至る。前世紀の前半、学校は中日両国の戦争により、長く厳しい苦難の日々を耐え忍んだ。その中で、神戸華僑の「有钱出钱、有力出力(お金がある者はお金を、力もある者は力を出そう)」、「热心公益,舍己为公(公益のために力を尽くす、そのためには個人の利益は我慢する)」の精神の元、度重なる困難を乗り越え、海外に居住する華僑子弟に祖国の言語、文化を学ぶ機会を与え、品性、知性、そして健全な発達を遂げた人材に子ども達を育成し、将来、中日友好の事業に貢献でき得る人材育成をし続けた。